なぜ素イデアルの集合をスペクトルと呼ぶのか?

可換環 AA に対してその素イデアル全体の集合を AA のスペクトル(spectrum)といい[1]SpecA{\rm Spec}A などとかく. では何故これを「スペクトル」というのか.疑問に思った方は多いのではないだろうか(少なくとも私は思った).

本稿ではこの可換環のスペクトルの名の由来が線型作用素のスペクトルから来ている(と思われる)ということについて解説する[2]

Contents

作用素 → Banach 環

まずは(有界)線型作用素のスペクトルについて思い出そう.なお,Hilbert 空間や有界線型作用素については既知とする(例えば文献 [HY1] を参照のこと).

定義 (線型作用素のスペクトル):
複素 Hilbert 空間 HH 上の有界線型作用素 T:HHT: H \rightarrow H に対して

σ(T):={λCλITは可逆でない}\sigma(T):= \{\lambda \in \mathbb{C} \mid \lambda I - T は可逆でない\}

TTスペクトル(spectrum)という. ただしここで II は恒等写像を表す.

次の例から線型作用素のスペクトルは有限次元の線形代数における固有値の概念の一般化であることが分かる.

(線型作用素のスペクトルの例):
有限次元複素 Hilbert 空間 H=CnH = {\mathbb C}^n の場合を考える.このとき n×nn \times n 行列 TMn(C)T \in M_n({\mathbb C}) は自然に HH 上の有界線型作用素とみなせる. 有限次元の場合,任意の λC\lambda \in {\mathbb C} に対して

λITは可逆でない ker(λIT){0}\lambda I - T は可逆でない \iff \ker (\lambda I - T) \neq \{0\}

が成り立つので[3]TT のスペクトルは TT の固有値全体のなす集合に等しい:

σ(T)={λC:Tの固有値}\sigma(T) = \{\lambda \in \mathbb{C}: T の固有値\}.

なお,一般に無限次元 Hilbert 空間上の有界線型作用素に対しては

λσ(T) ker(λIT){0} または ran(λIT)H\lambda \in \sigma(T) \iff \ker (\lambda I - T) \neq \{0\} \ または \ {\rm ran}(\lambda I - T) \neq H

であり[4],固有値以外のスペクトルが存在することがある.

冒頭で述べたようにこの線型作用素のスペクトルが素イデアル全体の集合をスペクトルと呼ぶことの理由である(と思われる)が,このままではイマイチその理由が見えてこない.そこで線型作用素のスペクトルを別の観点から捉えるために Banach 環とそのスペクトルの概念を導入しよう.

定義 (Banach環):
複素数体 C\mathbb{C} 上の Banach 空間 A=(A,)A=(A,\| \cdot \|)C\mathbb{C} 上の代数(多元環)としての構造が定まっており,ノルム \| \cdot \| と 積構造に関する条件

abab,a,bA\|ab\| \leq \|a\|\|b\|, \qquad \forall a,b \in A

を満たすものを Banach 環(Banach algebra)という.

Banach 環の例としては複素 Hilbert 空間 HH 上の有界線型作用素全体 B(H)\frak{B}(H) などが挙げられる(ノルムは作用素ノルムを考える). B(H)\frak{B}(H) の例から分かるように,一般に Banach 環における積は可換とは限らない.Banach 環 AA に対して,その積が可換なとき,つまり任意の a,bA a,b \in A に対して ab=baab=ba が成り立つとき,AA可換 Banach 環という.

可換 Banach 環の例としては位相空間上の連続関数全体のなす環などがある:

(連続関数環):
コンパクト Hausdorff 空間 XX に対して,

C(X):={f:XCfは連続}C(X):=\{f:X \rightarrow \mathbb{C} \mid f は連続\}

と定義すると,各点で定まる演算と一様ノルム(f:=supxXf(x)\|f\|:=\sup_{x \in X}|f(x)| )により C(X)C(X) は Banach 環となる.演算が各点で定義されているため C(X)C(X) は可換 Banach 環である. C(X)C(X)XX 上の連続関数環(algebra of continuous functions)という.

さて,いま Banach 環 AA に対してその可逆元全体を A×A^{\times} と書くとしよう. 上述の様に Hilbert 空間 HH 上の有界線型作用素全体 B(H)\frak{B}(H) は Banach 環であり HH 上の有界線型作用素は B(H)\frak{B}(H) の元である.このとき TB(H)T \in \frak{B}(H) のスペクトルは定義から

σ(T)={λCλITB(H)×}\sigma(T) = \{\lambda \in \mathbb{C} \mid \lambda I - T \notin \frak{B}(H)^{\times} \}

とかける.そこで任意の単位的 Banach 環[5] AA の元 aAa \in A に対して,そのスペクトル σ(a)\sigma(a)

σ(a):={λCλ1aA×}\sigma(a) := \{\lambda \in \mathbb{C} \mid \lambda 1 - a \notin A^{\times} \}

で定義する.ただしここで 11AA の単位元を表す.

(連続関数環の元のスペクトル):
コンパクト Hausdorff 空間 XX 上の連続関数環 C(X)C(X) を考える.任意の gC(X)g \in C(X) に対して

gC(X)× g(x)=0,xXg \notin C(X)^{\times} \iff g(x) = 0, \quad \exist x \in X

であることに注意すると,任意の fC(X)f \in C(X) に対して

σ(f)=f(X)\sigma(f) = f(X)

である.

定義から分かるように Banach 環の元のスペクトルは線型作用素のスペクトルの概念の一般化であり,そのため「スペクトル」という名前にもあまり違和感は感じないことと思う.

それでは次に Banach 環のスペクトルを定義しよう.これは Banach 環の元に対してではなく Banach 環自身に対して定まる概念であることに注意してほしい.

なお,以降の議論において Banach 環は可換なもののみを考える.

定義 (可換 Banach 環のスペクトル):
可換 Banach 環 AA に対して,

σ(A):={α:ACαC代数としての準同型かつα0}\sigma(A) := \{\alpha :A \rightarrow \mathbb{C} \mid \alpha は\mathbb{C}代数としての準同型かつ \alpha \neq 0\}

AAスペクトル(spectrum)あるいは指標空間(character space)と呼び,σ(A)\sigma(A) の元を AA指標(character)という.

ここで σ(A)\sigma(A) をスペクトルと呼ぶことの根拠は次の命題にある[6]

命題 (可換 Banach 環のスペクトルと元のスペクトルの関係):
AA を単位的 Banach 環とするとき,任意の aAa \in A に対して

σ(a)={α(a):ασ(A)}\sigma(a) = \{\alpha(a) : \alpha \in \sigma(A)\}

が成立する.

つまり,Banach 環の任意の元のスペクトルは考えている Banach 環自体のスペクトルで記述され,その意味で Banach 環のスペクトルの概念は元のスペクトルの概念を含んでいる(したがって「スペクトル」という名称が適当である)といえるのである.

さて,以上により「スペクトル」という言葉の持つ意味が

線型作用素のスペクトル

Banach 環の元のスペクトル

可換 Banach 環のスペクトル

というところまで広がった.
次節ではこの可換 Banach 環のスペクトルが環のイデアルとどのように関係してくるのかについて解説する.

Banach 環 → 極大イデアル

冒頭で述べたように可換環 AA の素イデアル全体 SpecA\mathrm{Spec} A がスペクトルと呼ばれる理由を説明することが本稿の目的であるが,素イデアル全体の前にまずは極大イデアル全体に注目しよう.

可換環 AA に対して,その極大イデアル全体を SpmA{\rm Spm}A とかき, AA の極大スペクトル(maximal spectrum)という[7]

ここでまた「スペクトル」という用語を用いたが,この用語の正当性は以下の理由による.
まず極大スペクトルは任意の可換環に対して定義される概念であるので,当然可換 Banach 環に対してもその極大スペクトルを考えることができる点に注意しよう.そして実はこのとき,単位的可換 Banach 環におけるスペクトル(ここでは指標空間の意味)と極大スペクトルの間に一対一の対応が存在することが示せるのである:

定理 (指標と極大イデアルの対応):
単位元をもつ可換Banach環 AA に対して

σ(A)SpmA,αkerα\sigma(A) \longrightarrow {\rm Spm}A, \quad \alpha \mapsto \ker \alpha

は全単射である.

このように環の極大スペクトル SpmA{\rm Spm}A の名称は Banach 環のスペクトルから来ている(と思われる)のであるが,一方で前述のように Banach 環のスペクトルの概念は線型作用素のスペクトルの概念の一般化であった.
よってこれらをまとめると,環の極大スペクトルの概念は線型作用素のスペクトルからきていることになる:

線型作用素のスペクトル

Banach 環の元のスペクトル

可換 Banach 環のスペクトル

環の極大スペクトル

さて,ではなぜ極大イデアル全体だけでなく素イデアル全体をもスペクトルというのであろうか. これを説明するには空間と環の対応について少しばかり解説をする必要がある.

以下執筆中

参考文献

  • [HY1] 日合文雄and 柳研二郎, "ヒルベルト空間と線型作用素", 1995.

  • [IN1] 生西明夫and 中神祥臣, "作用素環入門 I --関数解析とフォン・ノイマン環--", 2007.

  • [U1] 上野健爾, "代数幾何", 2005.

脚注

[1] より正確に,素スペクトル(prime spectrum)ということもある.
[2] "思われる"と断定を避けて書いているのは,スペクトルの概念が定義されたのが数十年以上前のことかつ,この事実に言及した信頼できる文献を筆者が知らないためである.ただし,本文で述べている内容自体は専門家にとっては well-known な事実であり(従って本記事の説明に対して特にオリジナリティを主張したりはしない),おおよその説明は間違っていないと思う.もしこれを見られた方で正確な解説が書かれている文献をご存知の方はお知らせいただけると幸いである.

[3] 次元定理から,単射 \iff 全射 \iff 全単射 である.
[4] Banachの逆写像定理から,有界線型作用素 TT が全単射のとき T1T^{-1} も有界となる.
[5] 単位元を持つBanach環を単位的Banach環という.
[6] これについては例えば [IN1] の1.10節で言及がなされている.
[7] 例えば [U1] でこのような用語を用いている.

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